Dream Catcher Vol.2

Jan 31, 2015 17:01


続きです。


細かい雪が降り出していた。
 人気のない道路をフレイザーはぼんやりと見つめていた。
フレイザーの足元には狼が彼を守るように座っていた。
 時々フレイザーの顔を見上げる。しかし、フレイザーはぴくりとも動かない。
 狼は甘えるように唸った。

病院の自動ドアが勢いよく開き、フランチェスカが姿を見せた。
フレイザーを見つけ、声をかけようと口を開き、そのまま立ち止まってしまう。
あまりにもフレイザーの後ろ姿が寂しげに見えたのだ。彼女の気配に気づいて振り返った狼と目があい、フランチェスカは気を取り直して、笑顔を作った。
 「コーヒー持ってきたわ。」
 手にした紙コップを差出しながらフランチェスカは言った。
 「お母さんは?」
フレイザーは紙コップを受け取り彼女に聞いた。
 「ずっと神様に祈ってるわ。そばにいるとうっとうしいから逃げてきちゃった。」
 「そんな言い方、するべきじゃないよ。」
 「そうね、…大丈夫よ。兄さんは死なないわ。」
 「すまない。自分がついていながら…。」
 「あなたのせいじゃないわ。レイがドジ踏んだのよ。いつものことじゃない。中に入りましょう。ここは寒いわ。さぁ。」
いくらフランチェスカが慰めてくれても、フレイザーにはどうしても今回のベッキオの怪我は自分のせいだと
思えて仕方がなかった。自分が情けなかった。
 暖かい病院の中には入れないと思っていた。
 「でも、ディーフを一人にはさせられない。」
フレイザーはつぶやいた。
 「じゃ、もう帰りなさい。何かあったら知らせるから。」
フランチェスカはやさしく彼の肩を抱いた。
 「レイは大丈夫よ。ちょっと肋骨が折れただけ。すぐに直るわよ。それとも彼の麻酔が切れて、意識が戻るまで、ずっとここにいるつもり?いくらあなたでも、そんなことしたら風邪ひいちゃうわ。」
フレイザーはうなずいた。
 「レイの顔見ていく?」
フレイザーはフランチェスカに促されるまま、病院の中へと入っていった。

その夜、じっとベッドに横になり、フレイザーは暗闇を見つめていた。
 目をつむるとまるで死人のようなレイの横顔が浮かんでくる。フレイザーは寝返りをうった。
 体はどろどろに疲れているのに、神経はぴんと張り詰め、思いはどうしてもレイのもとへと帰ってゆく。
 何度も寝返りを打ちながら、それでもやがてフレイザーは眠りに落ちた。

体が暗闇に吸い込まれてゆく。
つかまろうと手を伸ばしても、何もない。どんどん加速がつき、やがて耐えられないスピードになったとき、
 「ベニー…」
 自分を呼ぶやさしい声が聞こえた。
いつの間にかリヴィエラの助手席に座っている。
 横を見るとレイが真剣な表情で前を見ている
 その横顔に言葉をかけようとして、ふと口をつぐむ。
レイの燃えるような瞳。吸いつけられるように、じっとその横顔を見つめてしまう。
 「レイ?」
 思わずもれる呼びかけに、彼が自分の方を向いた。
そのエメラルドグリーンの瞳に見つめられると、鼓動は自然と早くなり、やがてあの感覚が甦ってくる。
 「レイ…」
 堪らず彼に手を伸ばす。彼はそれに答えるように、自分に覆いかぶさってくる。
 彼の瞳に自分が映る。
その瞬間を待っていたかのように目を閉じた。

フレイザーは飛び起きた。
 鼓動は激しく打ち、汗がふきだしている。
 肩で息をしながら、彼は自分の頭を抱えた。なんて夢を見るんだ…。
 信じられない思いだった。ほてった体に冷たい汗が流れ落ちる。
ベッドを抜け出すとフレイザーはよろよろとバスルームへ向かった。

邪念を追い払おうと、冷たいシャワーを頭から浴びた。
 体がしんから冷え、がちがちと歯が鳴り出すのもかまわず、フレイザーはシャワーを浴び続けた。

病院はいつもどこかよそよそしい。
 人工的な明るさの中に、人間の苦しみや悲しみ、そして喜びをも隠している。
フレイザーの心は複雑だった。レイにあって冷静でいられるだろうか。
 不安と彼に会える喜びとでフレイザーの胸は高鳴った。

病室の前まで来て、フレイザーは深呼吸をした。
 覚悟を決めて部屋に入る。
 誰もいない。
フレイザーは大きく息をはいた。
ベッド脇のサイドボードに乱雑に置かれた花や見舞いの品を彼はぼんやりと見つめた。
 「よう、ベニー来てくれたのか?」
その時、看護士の押す車椅子に乗ってベッキオが部屋に入ってきた。
 頭には包帯が巻かれ、肩は固定され、胸にはコルセットがはめられている。
 痛々しいベッキオの姿にフレイザーの胸は痛んだ。
 「やあ、レイ。思ったより元気そうだ。」
フレイザーは笑顔で彼に答えた。平気でいられたことが、彼を少なからず驚かせた。
 「いや~頭撲られたせいで、やたら検査だなんだと、鬱陶しくてな。見舞いは?」
 「ないよ。」
 「ベニー、普通そんなに親しくなくても、見舞いのひとつやふたつ持ってくるもんだぞ。」
ベッキオは看護士に手伝ってもらいながら、ベッドに横になった。
 体を動かすたびに、ベッキオの口からうめき声がもれる。フレイザーにはそれが辛かった。
 「大丈夫かい?」
 「だいぶましになったんだが、体をこう、痛っ、動かすと、いててて…。最初の頃は息するだけで、ず~んと響いて、身動きもできなかったんだぜ。」
  自分で体をねじってみせて、またベッキオはうめいた。
フレイザーには何も答えられなかった。明るく話すベッキオの姿に、ますます罪悪感が膨れ上がってくる。
フレイザーは耐えられなくなり、ベッキオから目を逸らせた。
 「俺のリヴ、調子はどうだ?」
 突然ベッキオが聞いた。フレイザーは驚いて、ベッキオを見た。
 「誰だい?その人?」
 「おいおい、ベニー大丈夫か?俺の大事な愛車だよ。今、お前が乗ってんだろ?」
 「ああ、元気だよ。」
その答えにベッキオの顔がゆがむ。
 「お前、どっか悪いんじゃないか?そういや、何か顔色悪いぞ。」
ベッキオはフレイザーの目を覗き込んだ。心底自分を心配している目。
 「すまない。レイ。」
フレイザーは目を伏せた。
 「なんで、お前が謝るんだよ。こいつぁ、俺が自分でドジふんだんだよ。お前には関係ない。それとも、ベニー、大事な車に傷でもつけたか?」
 「いや、車は無事だよ。」
 「それならいい。俺だと思って大事にしてくれ。」
フレイザーには、なにげないベッキオの一言が心に響いた。
 鼓動が早くなってくる。ふいにあの夢のイメージが脳裏に浮かんだ。
 情熱に潤むハーゼルグリーンの瞳・・、重なる唇。
フレイザーは慌てた。
 「レイ、すまないが、用事を思い出した。また来るよ。」
そう言い残し、フレイザーは慌しく病室を出て行った。
 「何だ?あいつ…。」
ベッキオは彼の突然の変化についていけず、呆然とフレイザーの後ろ姿を見送った。

「フレイザー巡査…。」
どこか遠くから自分を呼ぶ声がする。
 「フレイザー巡査…。」
 突然肩をゆすられ、フレイザーは飛び起きた。
 目の前にターンブルが困惑した表情で立っている。
 「大丈夫ですか?」
フレイザーは、自分が今職務中であることを思い出し、慌てて体裁を取り繕う。
 「やあ、ターンブル。何か用か?」
 「用かじゃありませんよ。居眠りなんて、あなたらしくないですね。具合でも悪いんですか?」
 「いや、大丈夫だ。どこも悪くなんかないよ。」
 少しうろたえて、彼は答えた。
 怪訝な顔で、ターンブルは部屋を出て行った。
フレイザーはため息をつくと、椅子に沈み込んだ。
 体が重い。
ここ数日、フレイザーは眠れなかった。目を瞑り、睡眠に入ろうとすると、いつもあの夢を見てしまう。
それは、段々とエスカレートしていく。
その夢はリアルな感覚を伴い、夜な夜なフレイザーを悩ませた。
 睡眠不足は、彼の鋭敏な感覚を鈍らせる。いつもどこか上の空で、ついぼんやりしてしまう。
 自分が情けなかった。
 一体自分はどうしたというのか。フレイザーには自分のこの変化が信じられなかった。
 自分は異常なんだろうか。否定しても否定しても、思いはレイに帰ってゆく。
どうすればよいのか、出口の見つからない袋小路に迷い込んだようだ。
フレイザーは両手で自分の頬を叩くと、目の前の書類にペンを走らせた。

黒々と、ミシガン湖の水面が揺れている。
 冷たい風がフレイザーの頬をさす。それがかえって心地よかった。
じっとうねる水面を見ながら、フレイザーは考えていた。
レイに、この自分の気持ちを悟られてはならない。
 自分がレイに友情以上の気持ちを抱いていることを知られてはならない…。
 彼の前では平静でいなければ・・・以前の自分のように。
もし、レイにこの気持ちを知られてしまったら・・・。それを考えるのがフレイザーには怖かった。
 彼を失ってしまうかもしれないことが、今のフレイザーには耐えられなかった。
 冷たい風が心地よかった。
フレイザーは、じっとミシガン湖の水面を見つめ続けた。

病院の廊下を歩きながら、フレイザーの心は重かった。
 昨日、領事館にベッキオから電話があり、退院が決まったので迎えに来てくれと言ってきた。
フレイザーは複雑な思いだった。レイが退院したら、彼との間に距離をおくことができない。
 自分が平静でいられる自信がなかった。
きっと、自分を抑えられなくなる。
フレイザーはあの夢をみるのが怖くて、近頃は眠れぬ夜が続いていた。
ベッキオの病室の前まできて、フレイザーの足はすくんだ。

深呼吸をしてドアをノックする。
 「どうぞ。」
ベッキオの声が聞こえた。
 覚悟を決めて、フレイザーはドアを開けた。
ベッキオはベッドに腰をかけ、服と格闘していた。
 「よう、ベニー、いいところに来た。ちょっと手伝ってくれ。」
ベッキオの背中がまぶしかった。
どぎまぎしながら、フレイザーはベッキオの傍に歩み寄り、その目は無意識に彼の背中に吸いよせられる。
 肩甲骨のあたりに、うっすらと残る傷跡。
 自分をかばって撃たれたときのあの傷だ…。フレイザーはたまらず、その傷にそっと触れた。
 「何すんだ!いててて…。」
ベッキオがその瞬間、体をよじった。
 「お前なぁ、動かすだけで痛いって言ってんだろ。くすぐるなよ!!冗談になってないぞ!」
 「あぁ、ごめん、レイ。大丈夫かい?」
 「大丈夫じゃねぇよ。いてて…。」
ベッキオは胸を押さえた。
 「肩はあがらねぇ、動くと胸は痛てぇは、頭にはでっかいこぶ。んでもって、11時までに署に顔を出さなきゃなんねぇってのに、いきなりくすぐるやつがあるかよ!いいから早く服着るの手伝え。」
フレイザーの心臓は高鳴っていた。
つとめて冷静を装い、フレイザーはベッキオの着替えを手伝った。
フレイザーの心は乱れて、このまま彼の背中に頬を摺り寄せ、彼を抱きしめたいという思いが大きくなってゆく。
 心臓の鼓動は激しく打ち、耳の奥でどくどくと鳴っている。
フレイザーは焦った。
この胸の高鳴りをレイに悟られたらどうしようか。彼の服を持つ手が震えた。
その時、ベッキオが言った。
 「お前、最近変だぞ。顔色は悪いし、いつもどっか上の空だし。まるで恋でもしてるみたいじゃないか?」
フレイザーの心臓が一瞬凍りついた。
 「そんなふうに見えるのかな?」
 「何だ?そうなのか?誰だ?俺の知ってる女か?」
 「そうじゃないよ。レイ。」
 「じゃ、何だ?病気か?まさかな。」
フレイザーは意を決して、口を開いた。
 「レイ、君は…あの時、あの…。」
 「何だ?」
 「あの日だよ。レイ。君がその怪我をした、あの日。」
 「だから何だよ。」
 「車の中で君が…。」
 「俺が何かしたか?」
フレイザーにはそのベッキオの答えがショックだった。
 自分が思い出し続けているあのキスのことを、レイは覚えていない?
 「君は覚えていないのかい?」
 「何のことだよ。はっきり言えよ。気持ち悪いやつだな。」
フレイザーは打ちのめされた。
ベッキオは思い出しもしない。自分がこの2週間、ずっと思い悩んでいたことを、ベッキオは少しも覚えていなかった。しかも、自分のことを気持ち悪いと言ったのだ。
 悩み続けていたフレイザーには、その言葉は一番聞きたくない一言であった。
 何気ないベッキオの一言ではあっても、今の彼には完璧な拒絶の意味を持つ。
 一瞬で奈落の底に叩き落されたような衝撃だった。
フレイザーは、もう何も考えられなくなっていた。
 頭にあるのはひとつだけ。
ここから逃げ出したい。レイの前から逃げ出したい。
 「どうした?フレイザー?」
ベッキオの声に我にかえったフレイザーは、しかしもうまともにベッキオを見られなかった。
 「レイ、悪いけど、一人で帰ってくれ。僕には出来ない。」
 「何が?おい、フレイザー?」
ベッキオの声を背中で聞きながら、フレイザーは病院の廊下を走った。
 頭の中で、レイの一言が繰り返される。
 気持ち悪い…。気持ち悪い…。
 自分は異常なのだ。その時のフレイザーには、周りのすべてが自分をあざ笑っているようだった。
 逃げるように病院から飛び出し、フレイザーはそのまま人ごみの中に姿を消した。

「ここで下りてくんな。」
 運転手は横柄な口調で、バックシートに沈んでいるベッキオに言った。
 「ちょっと待ってくれ。署までまだ2ブロックもあるじゃないか。」
 「俺はサツは嫌えだといっただろう。あんたへの親切もここまで。これが限界だ。下りるかまた病院まで引き返すか、どっちか選びな。」
 「わかったよ。ここで下りるよ。」
ベッキオは痛む胸をかばいながら、車から降りた。
スピードを上げ、タクシーが遠ざかる。
ベッキオの肩はずっしりと重く、頭のこぶは今朝より大きくなっていそうだ。
 鎮痛剤も切れたようで、先ほどからずきずきと胸も痛みだしていた。
 最悪の気分だった。
フレイザーが自分を置いて病院から去ってから、ベッキオはありがとうとすいませんがを、一年分は使ったような気がしていた。
まず看護士に頼み込み、自分の代わりに荷物を車椅子に乗せてロビーまで運んでもらい、受付に頼み込んで、タクシーを呼んでもらい、タクシーの運転手に頼み込んで、荷物を車に積んでもらい、頼み込んで家まで寄ってもらい、また頼み込んで荷物を降ろしてもらい、もう一度頼み込んで署まで乗せて来てもらったのだ。
ぐったり疲れはてて、ベッキオは署の階段を上った。

「よう、ベッキオ。ひどい顔だな。」
 一目見るなり、ヒューイ刑事はそう言い放った。
 「悪かったな。」
むっつりとベッキオは答えた。
 「フレイザーは一緒じゃないのか?」
その問いにベッキオは答えたくなかった。
くぐもった声で「ああ」と返事した。
 「あら、レイ、退院おめでとう。」
やっと聞かれた嬉しい声に、ベッキオは振り返った。
イレーンが書類を手に歩いてくる。
すれ違いざま、「一人?フレイザーは?」
うんざりしたように、ベッキオは肩を落とした。
 「一緒じゃなきゃならんのか?何でみんなフレイザーのこと、聞くんだよ。」
イレーンはきっぱりとベッキオに言った。
 「いつも一緒じゃないの?ウェルシュ警部補がお待ちかねよ。覚悟したほうがいいわ。」
ベッキオは肩を落としたまま頭を振ると、警部補の部屋をノックした。

「ベッキオ、昨日俺は何時に来るように言ったか覚えてるか?」
 「11時です。」
 「お前は時計を持っていないのか?」
 「持っております。」
 「今何時か教えてくれないか?」
 「11時50分です。」
 「何をしていた?」
 警部補の目が細められ、ベッキオは目をあわさないよう、まっすぐ前を向いて言った。
 「言いたくありません」
 「そうか、言いたくないか?いい度胸だな。ベッキオ。今回の件では、いささかやりすぎたようだ。単独で何の報告もなしに捜査を進め、あげく大怪我を追った。心配しろというのは、甘いぞ、ベッキオ。」
ベッキオは胸に手をやった。それを見て、少し声を抑え、警部補は言った。
 「報告書を出せ。詳細に事件のことを報告しろ。いいな。」
 「それについてでありますが…。」
ベッキオがポケットから書類を差し出した。
 「何だ?」
 「診断書です。」
 書類を受け取り、警部補は目を通すと
「なんだ?これは。」
ベッキオは姿勢を正すと、やけくそのように大声で言った。
 「頭を強打したせいです。あの事件の前後の記憶が自分にはありません。」
 「ふざけとるのか?ベッキオ。仕方がない。お友達のカナダ人に手伝ってもらってもかまわん。とにかく報告書をまとめろ。いいな。」
 「わかりました。」
ベッキオが部屋を出てゆくと、ウェルシュ警部補はがっくりと椅子に崩れこんだ。

椅子にどかと腰を下ろし、ベッキオは引き出しからアスピリンを出すとそれを噛み砕いた。
デスクに肘をつき、頭を抱え込む。
ようやく頭を上げ、受話器を取る。

「フレイザー巡査はまだ領事館に帰っておりません。」
ターンブルは姿勢を崩さず、はっきりと答えた。
 「わかりました。巡査が帰ってきましたら必ず伝えます。復唱します。俺の車、さっさと返しやがれ、ですね。」
ターンブルは丁寧にメモを取った。

ようやく家にたどり着いたベッキオがタクシーから降り、目にしたのは自分の愛車だった。
 何事もなかったかのように家の前に止まっている。
 慌ててベッキオは家に入った。
 「おい、フラニー、フレイザーはどうした?」
 奥からフランチェスカが顔を出す。
 「あら、レイお帰りなさい。遅かったのね。」
 「フレイザーは?」
 「帰ったわよ。はい、車の鍵。」
 「帰っただと?何か言ってなかったか?」
 不思議そうに、フランチェスカはベッキオの顔を見た。
 「何を言うの?そうだ、傷はつけていないと思うけど一応中も確かめておいてくれって。」
ベッキオは表に飛び出した。

リヴィエラのドアを開け、覗き込む。変わったところは見当たらない。
ダッシュボードを開けてみる。異常はない。
 車内を見渡す。
 日よけに白い何かが挟まっているのに気付き、ベッキオはそれを取り出した。
 半分に折られた紙。開くとフレイザーの筆跡だった。

「思うところあって、しばらくカナダに帰ろうと思う。今回の件では君に多大な迷惑をかけてしまった。すまない。どうか自分のことは放っておいてくれ。フレイザー。」
ベッキオは声に出して読んでみた。
 「どういうことだ?」
 信じられない思いだった。
フレイザーの真意をつかみかね、ベッキオは悩んだ。そうしていると首筋が引きつってくる。
 手でマッサージしながら、だんだんベッキオは、フレイザーのこの態度に腹がたってきた。
 「どうしろってんだ?あのやろー。もう知るか!」
ベッキオは乱暴にリヴィエラのドアを閉めた。

タイプライターを前に、ベッキオは腕組みをして目を瞑っていた。
 通りがかったイレーンが彼の手元を覗き込んだ。
 「真っ白…、一行も書けてないのね。」
ベッキオが片目をうっすらと開けた。
 「思い出せないんだったら、フレイザーに聞けばいいじゃない?何意地はってるの?」
 「ほっとけ。」
 再びベッキオはもとの姿勢に戻る。
あきれたように肩をすくめ、彼女はその場を離れた。
ベッキオは頭を抱えた。
 事件の前後の記憶が何もない。まるでぽっかり穴でも開いたかのように、頭の中から消えている。
フレイザーも消えてしまった。
しかしベッキオは彼を探そうとはしなかった。
そのうち、何事もなかったかのようにひょっこり帰ってくるだろうと思っていた。
しかし、彼が消えてもう1週間が経とうとしていた。
 署の連中も、フランチェスカも、自分の顔を見るとフレイザーのことを聞いてくる。
ベッキオにはそれが鬱陶しかった。
 「俺は奴の幇間持ちじゃねえぞ。」
 自分でも少し自棄になっているのかもしれないとは思ったが、どうしても素直になれなかった。
 再びベッキオは腕を組み、目を瞑った。

リヴィエラから降りると、ベッキオはフレイザーの部屋を見上げた。
 真っ黒な部屋の窓に、少し躊躇しながら彼はアパートに入って行った。

ドアをノックしてみる。返事はない。
 「フレイザー?」
 一応声をかけベッキオはドアを開けた。
 人気のない真っ暗な部屋に廊下の明かりに照らされた自分の影が伸びる。
 部屋の明かりをつけた。きれいに片付けられた部屋。
ベッキオはフレイザーのベッドに腰を下ろした。
 「帰ってないか…。」
ぼんやりと部屋を見渡す。
 「なんだ、あんたか?」
そのとき、ドアからムスタフィが顔を覗かせた。
 「俺で悪かったな。」
むっとしてベッキオが答えた。
 「明かりがついてるんで、フレイザーが帰ったのかと思った。」
そう言いながら、ムスタフィは部屋に入ってきた。
ベッキオは何も答えなかった。ムスタフィは独り言のようにつぶやいた。
 「あの人がいないと、どうも寂しくてな。」
ちらっとベッキオを見て、彼は続けた。
 「あんた、フレイザーを探しにいかないかい?」
 「どうして?」
 「だって、あんた友達だろう。実はフレイザーが消える前、ちょっと様子が変だったんで、心配なんだよ。」
 「奴が自殺でもするってか?」
 「可能性がまったくないとは言えまい。」
ベッキオは、ムスタフィに詰め寄った。
 「奴はいつだって変じゃねえか。自殺しそうなほど変ってどういうことだよ。」
 「どうも夜よく眠れていなかったようだ。いきなり夜中にシャワーをあびたり、部屋を出て行ったり、とにかく普通じゃなかったんだ。大丈夫かと心配していた矢先、何も言わず居なくなって。あんたに心当たりはないのかい?」
 「ずっとフレイザーの様子を伺ってたみたいだな。」
 「壁が薄いから筒抜けさ。」
ベッキオが皮肉っぽく笑った。
 「寂しいか…。」
そのままムスタフィを残し、部屋から出ようとして、ドアの前で立ち止まる。
 「フレイザーに逢ったら伝えとくよ。」
 「探しに行くのかい?」
ムスタフィがベッキオの背中に聞いた。
ベッキオはその問いに肩をすくめて答えた。

マーガレット サッチャーがベッキオの訪問を受けたのは少し春めいてきた午後だった。
 「何の用かしら?」
 彼女にはベッキオの訪問の目的などお見通しだったが、気づかないふりをして聞いた。
 「お分かりでしょう?フレイザーのことですよ、もちろん。」
サッチャーは眼鏡を外し、ベッキオの目を覗き込んだ。
 子供のような無邪気な彼の目だった。
 「そうね、あなたが来ることはわかっていたわ。もう少し早いと思ったけど。フレイザーの居所ね?」
 「はい。律儀なフレイザーのことだ。あなたには連絡先を教えていると思いましてね。」
サッチャーはデスクの引き出しからメモを取り出し、ベッキオに差し出した。
 「フレイザーが残したのは私書箱よ。そこまでしかわからないわ。彼を探し出せる?」
 「さぁ。何とかなるでしょう。」
 「そう、彼にあったら伝えて。フレイザー巡査は今、休職扱いになっているわ。早く職務に戻るようにと…。」
 「わかりました。伝えます。」
ベッキオは彼女に敬礼をし、部屋を出てゆこうとした。その背中にサッチャーが声をかける。
 「ところで、あなた、フランス語はできる?そこはフランス語が公用語になっているの。」
えっという顔をしてベッキオは振り返った。

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