Finally finished with my paper, 50 minutes after class started. Would have been finished on time to make it to class if I hadn't had to copy it from computer to paper. I've been working on this (and actually in a focused way the entire time) since about 8:30 PM last night (it's now 9:51 AM), not including the work on researching stuff I did the night before... my first sucessful all-nighter here, hooray. Even though it ends a little rushed, I'm still really proud of this thing I got done. I'm gonna post it here in its original form and probably be embarassed when I get the paper back with all my grammatical and wording errors pointed out.
It's about the Hampton Roads area, primarily concerning some of the more interesting history of the area, with a little geography at the beginning.
ハンプトン・ローズはアメリカ合衆国の東海岸のバージニア州の南東部にある大都市地域である。「ハンプトン」との名前はイギリスにあるサウスハンプトン市の伯爵に由来し、「ローズ」とは、多くのアメリカ人の思っている意味と違って避難所である停泊地という意味を指す。ハンプトン・ローズにはノーフォーク市、バージニアビーチ市、チェサピーク市、ポーツマス市、ハンプトン市、ニューポートニューズ市、サフォーク市、ウィリアムズバーグ市と、いくつかの郡や町が含まれ、現在人口は約160万人である。世界一の港と言われているハンプトン・ローズは海岸の地域で、中央に流れるジェームズ川という大河がこの地域を更に、ノース・カロライナ州とジェームズ川に挟まれている「南ハンプトン・ローズ」と、ジェームズ川とヨーク川に挟まれているいわゆる「バージニア・ペニンスラ」、つまり半島、という二つの部分に分けている。バージニアビーチ市の東方には大西洋があるが、南ハンプトン・ローズの北、ペニンスラの東にはアメリカの最大河口であるチェサピーク湾がある。
ハンプトン・ローズの歴史は約400年前に新大陸に足がかりを得ることを目指していたイギリスがロンドン・バージニア・カンパニーによって植民団を送り込んだ時から始まる。この植民団が三隻の小さな船に大西洋を越え、バージニア・ペニンスラの南河岸に辿り着き、イギリスの最初の永続的植民地であったジェームズタウンを創立する。1619年にアメリカで最初に選出された代表市民議会がこのジェームズタウンの教会で開催された。しかし、ジェームズタウンの位置があまり良くなかったため、塩水による水不足、マラリア、インディアンの襲撃などの様々な問題があり、生きることさえに大変であった。1633年に、ジェームズタウンから約8キロ北のジェームズ川とヨーク川との分水嶺にインディアンに対する防御のために前哨部隊地が造られ、17世紀後半に人々のジェームズタウンからハンプトン・ローズ全域への伝播と伴って「ミドル・プランテイション」と呼ばれた大農園となる。1693年に当時のイギリスのウィリアム王とメアリー女王により、ウィリアム・アンド・メアリー大学はアメリカの最初に創立された大学となり、1695年にミドル・プランテイションに現在レン・ビルと呼んでいる大学の最初の建物が造られる。このウィリアム・アンド・メアリー大学を中心として周りに町が発展していき、1699年にバージニア植民地政府がその町に移転し、名前がウィリアムズバーグに改名される。当時のハンプトン・ローズの町は経済的にタバコ栽培で繁栄し、ノーフォークもイギリスとのタバコ貿易によって重要な港町となっていた。この時から約アメリカ独立戦争初めまでの間に、トマス・ジェファーソン、ジェームズ・モンロウがウィリアム・アンド・メアリー大学で勉強し、大学はベンジャミン・フランクリンに名誉学位を与え、このようにアメリカの有名な憲法制定者、大統領はウィリアム・アンド・メアリー大学から教育を受けたか、関係があったとのことになる。独立戦争が近づくと、バージニア議会は安全のためにジェームズ川の上流にあるリッチモンドへ移り、そこでパトリック・ヘンリーが有名な名文「私に自由を、さもなくば死を」の演説をする。後にヘンリーがバージニア州の知事となり、トマス・ジェファーソンがその官職を継承した時にバージニア州の首都がリッチモンドに変わる。独立戦争の間にノーフォークはイギリス軍艦隊の砲撃を受けて、ほぼ破壊されることになる。戦争の後半になるとウィリアムズバーグはアメリカ軍とフランス軍の本拠として使われるようになり、戦争の末にチェサピーク湾における海戦にフランス軍艦隊がイギリス軍艦隊を打ち破ったことによりイギリス軍の増援部隊の到着が引き止められる。その後、ウィリアムズバーグの近くにあるヨークタウンにイギリス軍のコーウォリス将軍はアメリカのジョージ・ワシントン将軍の軍隊、フランス軍隊、フランス艦隊に包囲され、止むを得ず降伏する。このようにアメリカ独立戦争は1781年に終結する。この終結より丁度80年経つと南北戦争が始まる。北部と南部の境界線に位置するバージニア州は戦地であったため、ハンプトン・ローズにいくつかの戦闘が起こったが、ゲティスバーグの戦いのような大きな戦いがなかった。この地域の最も知られている戦いは、現代的海軍戦法に大きな影響を与えた史上初の装甲艦同士の戦い、ハンプトン・ローズの戦いである。この戦いに南軍の装甲艦「バージニア」(実際、バージニア州以南に旧名「メリマック」の方がよく使われている)と、北軍の装甲艦「モニター」と三隻の木造帆船がジェームズ河口に偶然会って争い始める。しかし、互いに相手の装甲を破ることが出来ず、戦いは決着なしに終わる。
現在、ハンプトン・ローズは主に軍港都市の地域として知られている。ノーフォーク海軍基地は世界最大の海軍基地で、4隻の航空母艦が含まれる75軍艦と134航空機の母港である。ノーフォーク市に占領時代の日本に関する資料を展示するダグラス・マッカーサー資料館があり、ここはマッカーサーの墓でもある。バージニアビーチ市の砂浜は多くの旅行者を招く、ウィリアムズバーグ、ジェームズタウン(現在はウィリアムズバーグに含まれ、実際的な町ではなく、入植当時のように再現されている)、ヨークタウンは皆コロニアル、つまり植民地風、の観光名所として人気を高めていっている。
Now to go to class, turn it in and feel blank and tired for what's left of class... and then get to work on all the other things that need doing today... and hopefully sleep a little sometime in there.