始めに言葉ありき?

Jun 11, 2015 09:35

日本人の「語らない」文化について

多くの外国人にとって日本は遠くて神秘的なところのように見えます。あるとき日本の文化や伝統に惹かれ、熱心に日本語を習い始め、それは日本人との懸け橋になり、日本人との強い関係をつくる手段になると思う外国人は数多です。しかし実際に日本に来てみれば、日本の中のコミュニケーションはことばそのものよりも雰囲気やコンテクストのほうが大きい役割を持つことに気がつきます。一目見ればあまり意味がないフレーズや相槌の交換は日本人のコミュニケーションの大きな部分を占めます。日本人は相手を無理に説得せず強いて自分の意見を変えさせようとしません。ただ「事実」を述べ、なんとなく言いたいことをわかってもらいたがります。

例えば、ロシア人に比べると日本人はそもそもことばに対する依存度は低いです。逆に大事なことときたら、ことばにしないという伝統が強いです。中世の猿楽師の世阿弥には「秘すれば花なり」という有名な表現があります。この表現は、人と人を結ぶ、ことばがいらないぐらい、目に見えない深い関係を大事にするという日本のコミュニケーションの特殊性をよく見出していると思われます。

それではどうして日本ではこういう「語らない」文化が生まれたのでしょうか。仮定としては、それは昔の土壌の文化に与える日本人の研究者がいます。弥生からずっと農耕を中心にしてきた日本人の生活ですが、畑を耕すときは相手と喋らなくていいですね。しかも「相手」と言いながらも、多くの場合は、それは自然しかありませんでした。もう一つの可能な理由は、日本人の同質性にあります。何世紀か同じ文化で育てられ、更に鎖国で暮らしてきた日本人はことばを交わさなくても様子を見てなんとなく事情がわかるようになりました。たとえ様々な経歴をもった人々が集まり、多文化のアメリカの場合、相手と黙々と秋の月やチラチラ落ちる桜吹雪を眺め、同じことを感じる人がたくさんいるはずがないでしょう。

このような古い伝統からできた無言語コミュニケーションがあるからこそ、日本では修辞学や弁論術がようやく発達しなかったのではないでしょうか。日本の国会で行われる討議を西洋人は見てみたら、驚く人は少なくないでしょう。発表者はお互いに説得しようとせず、自分の「正しい」考え方や意見と相手に強く通そうともしません。一人ひとりは自分の考えを述べ、聞き手からその「正しい」解釈や納得を期待するようです。

こういうアプローチの違いは日本人と外国人との交流をどれくらい難しくするか想像には難くないでしょう。相手は日本語が話せてもその事実はあまり変わらないのです。特に«make yourself clear» ということを求める西洋人の相手の場合ですね。そのときは日本人の立場に立ってみればいかがでしょうか。直接すぎて自分の本音を吐き捨てるのは品が低い、礼儀正しくない、更に相手を傷つける恐れもあるという文化で育てられた人にとって「はっきり話せ」ということは簡単にできそうでしょうか。批評家の川本三郎は昭和の家族について次のように語っています

中産階級の小市民の家庭では、実は親子のあいだ、夫婦のあいだではそんなにホンネの会話はなされない。小津映画を見てもわかるようにむしろ大事なことほど口にはしにくい。

日本という大きな「家族」にもそのコミュニケーションの概念は保たれるようです。

日本は現在、国際化のために英会話や外国語の学習はどんどん激しくなっています。しかし英語を覚えても、伝統やコミュニケーションの習慣の違いという異文化が招く誤解はたぶんしばらく解決しないでしょう。グロバリゼーション時代は、日本は世界を理解し、世界に理解され、その過程で自分のユニークな文化も失わないためにはけっこうな努力が求められるようです。
ことばは確かにどこかに初めから存在していたようです。しかし、ことばの前にも何かあったのではないか。その観点から考えてみれば日本という神秘的な国は少しでも身近になるかもしれません。

(ファルトゥシナヤ エカテリーナ著)
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