Sep 15, 2002 04:10
アイ・アム・ソーリー
森首相が、総理大臣になった直後のある夜、数人で首相を囲んで食事をする機会があった。三十分ほど、遅れてやってきた。腰を少し折り、手でスマンスマンと会釈しながら、部屋に入ってくるなり、言った。「アイ・アム・ソーリー」一同、笑い転げたものだ。ソーリー(sorry)の軽いこと、そして、ソーリ(総理)のまた軽いこと、スマンスマン首相でまだ済んだころ、東証の株価がいまの倍近くはしたころの、話である。えひめ丸事件をきっかけに日米”そーりー”摩擦などという見出しを見るにつけ、あのときの森首相の得意満面の顔を思い出したものだ。
謝罪の摩擦を超えて
えひめ丸をめぐる日米間のあつれきは、首相訪米で政治的収拾に向かったが、この間もっとも熱を帯びたのは「謝罪」をめぐる応酬だった。「謝罪が足りない」「いや、もう十分した」「謝罪の仕方が悪い」「これ以上をしろというのか」「そもそも、米国は対日原爆投下に謝罪したのか」「それなら、真珠湾奇襲を謝罪したのか、従軍慰安婦に対してはどうなのか」「米国人は自己保身しか考えないのか。犠牲者への悔悟の気持ちをまず表すことが人の道というものだ」「日本人は謝ればなんでも許されると思っているのか。謝罪とは真相が分かり、責任が明らかになってならするものなのだ」ワシントンで知日派の面々と話していても、「事故なのに、なぜ日本はこうまで謝罪、謝罪と言い立てるのか。背景に何があるのか」といった質問を何度も受けた。要するに、これは文化摩擦なのだ、との議論も聞かれた。米国は訴訟社会だ。だから、簡単に謝罪はしない。日本は逆だ。謝罪は訴訟を予防する最善の道とみなされている、といった具合である。しかし、このような文化相対主義だけで済むものかどうか。ワドル前艦長の涙はどの文化だろうが、人間お心の泉からこみ上げてくる涙であろう。取り返しがつかない過ちをしたときにそれに対して謝る作法と、一定の要件が満たされた後それを受け入れる作法を、どの文化も持っている。それでこそ人間社会だろう。
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