(no subject)

Jan 24, 2025 19:03

やはりどれだけ精神の防衛機制が活性化しようとしても、通常の生活ができなくなってしまったなら、無理しても戻すことができない。人生のもう一年間を奪われたと、なんと残念だなーと思いながらも承諾するしかないような。頭を朝から殴られたままじゃ何ができるのだろうか。一貫性のある複雑な考えや感情の創造的な形での吐露などはさらなり、単に本を読んだり文章を暗記しようとしたり、ただ愚かな動画さえも視聴したりするのも時間の無駄にほかならん。空っぽになった頭の中は恰も祇園精舎の鐘の声かの如く、諸行無常の響きしか生産できない、適当なインプット・アウトプットもできない。こんなのいつ終わるかも分からない。穿ち屋に尋ねたところまあまあもう終了だと言われても、目で見ると解体作業は半分ぐらいできたのであれば安堵感をさせられるのかもしれんけど、どうせそうだとも言い難い。まだ始まりの段階だと言ってよかろうかな。まあ始まりより一二歩進んだのかもしれん。つまり、ここの住処はもう生活不可能な状態にこれからも何か月かの間残りつつあるだろう。拷問室だ。他には住処がない。住処に縛られているのを認識するのはかなりつらい。そとは寒すぎて、何処でも横たわってあれこれする状況じゃないな。あっちこっち放浪するだけだ。図書館の中にも寒くて煩い。人などはお喋りになられております故。喫茶店の中にも煩いのに加えて禁煙。図書館もさらなり。預かった住処にも時折煩くなったりし、冷蔵庫も付いたらごろごろ。なにかしら居心地悪い。まあこの奪われた一年間の葬儀を行えば良いのではと思うまで。なお時間の無駄だ。通常の生活を戻せないなら、全部無駄だ。嘆き悲しめどもさらにそのかひあるべからずとちょうどその通りだ。何かを書くのもやめたほうが良いのでは。まったくかひなしと。愚痴だけを吐き出すには何か意味があるのだろうか、いやあるまい。いつもいつもこんなようなことで何でも終わるのだ。もったいないな。

「やられたらやり返す、倍返しだ」という或る良きドラマの主人公の有名な台詞だった。誰にやり返すのだろうか。誰にも。力不足で、惨敗で、もう一度完全にやられたって私のような存在には愚痴だけを吐き出すんだ。そうするのを欲しくないのになぜしているのだろう。他になにができるの。何も。それだけすれば、自分自身の存在の意義を己に証明するつもりか。やはりやめたほうが良いのよ。
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