あの娘が眠ってる
空が泣きだして、あの娘の声が途切れたら、雨の音がすぐ近くまで来ていた。
◇
「――手ェ出したら犯罪ですよ?」
「同意の上なら問題ねえだろ。お前はもう結婚だって出来る歳だ。もうちょっと自身に責任を持て」
「責任転嫁した!大人のすることじゃない!」
「おお、悪いな。何せ坊っちゃん時代に呪い受けちまったもんであんまり世間一般の価値観知らないんだ」
「営業スマイルすんな!」
「キーキーうるせえな、丸呑みすんぞ」
ポーズとして、呪われた鯨の姿を晒し、ぐわっと口を開けて見せれば、相手は「わー、クジラ!」などと逆に喜んでしまうものだから面倒だ。
鈍感で小学生並の思考回路しか持ち合わせていない女に正攻法の制裁じゃあ意味がない。何せ子どもはすぐ立ち直る。
だったら、されたら困ることをしてやりゃいい。普段絶対にされないような、絶対に耐性のなさそうなことだ。
例えば、女扱いだとか。
自分が女で俺が男であるってことを否が応にも思い知らせてやればいい。
そう思って、寝込みを襲ってやろうかと試みた。が、呼気を感じる程度の至近距離に入ったところではたと目を醒まし、冒頭の台詞でもって色気の欠片もなく躱され今に至る。
やれやれ、まったく俺も面倒な女に引っかかったもんだ。
溜め息を一つ零して立ち上がると、再びデスクに着く。俺の体重を受け止めた回転椅子がギイ、と鳴った。
仕事は山積みでいくらこなしたところで次から次へと湧いて出る。
左手で頬杖をついてメールソフトを開くと、未開封のメールの数にうんざりした。
「そもそもなあ、てめえ他人の部屋来て家主ほったらかしてよだれ垂らしてぐうぐう寝こけるってのはどういう了見だコラ。何されたって文句言えねえぞ。お前んとこのアザラシ言ってただろうが、ベストオブ怖い人の部屋だぞ」
こたえないだろうとは思いながら、一応の牽制は投げ掛ける。
「どうせ何もしないくせに」
予想通りこたえなかったどころか、ニヤリと不敵で憎たらしい笑顔まで付けられた。
「ニヤニヤしてんじゃねえよ気持ち悪い」
腹が立ったので手元にあった新作のペンライトのサンプルを投げ付けてやったらいつもニンジンを食らっている(と、本人から聞いている)額にコツンと小気味よい音を立ててぶつかり、蒼井はいたっ、と小さく唸いた。
「何でそんな眠いんだ」
パソコンから視線を上げず、キーボードを叩く手もそのままに訊ねた。
「学校始まったら学校と部活とバイトでめっちゃくちゃきつくって……」
「欲張るじゃねえか、アホのくせに」
「アホなのは関係ないじゃないですか!てゆうかアホとかつらいやめてドジ・ブス・アホの三重苦ですか長のつく人はみんな失礼なんですか」
「それは全部事実だから文句のつけようもねえだろ。それに人の応接用ソファにヨダレ染みつけながら晒してる間抜けな寝顔見てたらアホ以外どうとも形容出来ねえな」
相変わらずノートパソコンから視線も上げずにそう言うと、蒼井はハッと気付いた様子で口元のよだれを拭い、ついでにポケットから出したハンカチでソファのヨダレも拭ったのが視界の端に映った。
ついでが逆だろうが。とは言え、ソファを拭う為に自らのハンカチを使ったことは評価に値する。俺は、顔を上げると改めてニコリといつもの営業スマイルを浮かべ言った。
「おいおいクマがひどいな、可愛い顔が台無しだ」
「ぎゃあああああああそういう地味な嫌がらせはもっとやめて!!」
「注文の多い女子高生だな、どうして欲しいんだめんどくせえ」
「安眠をください」
「今時の女子高生にしちゃストイックで色気のねえ注文だな」
「色気を求めますか、この私に」
「何しろ俺は色気絶頂の27歳だからな」
「うわっ……」
「なんだそれ」
「いや、私館長と一回り近く離れてるんだなあ、と」
「おお、なんだ喧嘩か?買うぞ」
「いやいやいやいやフランス映画みたいで素敵じゃないですか、青年と少女なんて!」
「なんだ、お前俺とフランス映画みたいなことしたいのか?フランス映画なんか始まって15分で出会ってセックスしてあとは喧嘩してセックスしての繰り返しだぞ」
「なっ、ちょっ、」
赤くなって言葉を詰まらせた蒼井を見て、どうやら報復が久々に効いたようだと、内心ほくそ笑む。
いつまでも女子高生にいいようにあしらわれてやる程お人好しでも枯れてもいないつもりだ。
ずっと握ったままだったマウスから手を離し、回転椅子をソファに向け、言った。
「そうか、気付いてやれなくて悪かったな。お前が相手じゃ配役に難ありだがまあいいだろ。よし、来い」
「真顔で言うなあああああああああ!!!」
蒼井は枕にしていたイルカを模ったビーズクッションを投げ付けて来たが、見た目の大きさに対して質量の軽いそれは、思いの外勢いを削がれぽそりと情けない音を立ててデスクの前に落ちた。
「大体お前寝るならここじゃなくてもいいだろうが。寝るだけなら動物園帰れ」
「だって動物園にはワラしかないんですもん」
「てめえソファの為だけにここに来て俺の仕事の邪魔しやがってんのか」
「それだけじゃないですよ!なんか館長の声安心するっていうか、いい感じに低くてこう、眠りを誘う……」
話す傍から語尾がふにゃふにゃと泳ぎだした。どうやら疲労困憊であることは間違いないらしい。
少し目を離した隙に、蒼井は再びソファに突っ伏し、気付けば寝息を上げていた。
「おいおい、本当に寝るか?今の流れで」
半ば呆れつつ、安らかな寝息に耳を立てる。
会話が途切れて気付いたが、どうも壁を打つ音があるようだった。雨だ。
この館長室の天井と壁は一部をガラス張りにしてある。天候の変化はこういったレジャー産業を営むからには切り離せない要素だからだ。雨の日というのは、水族館の売り上げが上がる。天候に左右されないレジャー施設は数が限られているからだ。
だから、比較的天候の変わりやすい春や秋に実施される遠足の行き先には水族館が好まれる。
雨が降り始めたならば、それなりの指示を出さなければならない。出口近くに設置した売店には、水族館のロゴやイルカだシャチだが泳ぐ絵柄を入れたビニール傘を用意し、若干の値引き価格で販売する。入口には傘を入れるビニールを用意する。床の掃除は常日頃から怠らぬよう指示しているが、雨の日は殊更だ。
一連の指示を脳内でまとめ、エコーロケーションでシャチを呼ぶ。はい、と応えたシャチに一通りの指示を出しておけば、後は幹部共を通して館内全体へ伝播する。
シャチからいくつかの問答と報告があり、それが終わると館長室には再び静寂が湧いた。
静寂の中に響く、水滴がガラスを叩く音と小さいが規則的な寝息。
やれやれ、やっと仕事が出来そうだ、と再びキーボードを叩く。
キーボードを叩く音と、静かな寝息が部屋の中に充満する。
没頭していたおかげで部屋の灯りがノートパソコンの液晶の光のみを頼りにしている事に気付く。ふと顔を上げれば、外はとうに自然光を失い、ぽつぽつと灯された遊歩道の街灯のみが暗がりの中に揺れていた。左手の腕時計に視線を落とすと、短針は午後八時を通過したところだった。
こいつ、帰らなくていいのか?そうは思いつつ、余りに安らかに眠るその姿に、無理矢理叩き起こす事は憚られた。
「フランス映画、ねえ」
椅子から立ち上がり、ソファへ向かった。革靴の底が大理石の床を踏みしめコツリコツリと音を立てたが、そこで眠る子どもの耳には入っても、どうやら脳までは届いていないようだった。
ソファで体を丸めて眠る子どもをまっすぐに見下ろしながら想像する。
その服を引き裂いて、無理矢理組み敷いて、行為に至るのは簡単だろう。
でも、そこで終わりだ。
もうこいつは二度と俺に近寄らないだろうし、察しのいい動物園の奴らももう二度とこいつを野放しにはしないだろう。
それは望むところじゃない。どうせ行為に至るなら、それなりの扱いだってしてやりたいとも思う。俺は中身まで化け物になっちまったとは思わない。自分の為に泣いた人間に対して、それなりの感情を抱かない程成り下がっちゃいない。
どうせ行為に至るなら、幸せな映画のように、朝シーツの上で共に目覚めたいと思う。経験したことのない映画のような朝を、出来るなら迎えたいと思うし、それが幸せなものだと実感したいしさせてやりたい。だが、その為にはどうやら長い待機の期間を強いられるようだった。
ドジが板に付いている女子高生は、そのスカートの中すら短パン着用で鉄壁のガードだ。バイト中は平気でタンクトップ一枚になるくせに、貞操観念がおかしいんじゃないか?
ソファの前にしゃがみ込んでしばらく間抜けな寝顔を眺めていたら、不意に蒼井が寝返りをうった。狭いソファの上で寝返りをすれば、結果は解り切っている。
腕が出るよりも尾鰭に姿を変えたコートの方が早かった。ソファからごろりと転がり落ちた体重を支え、そのままゆるりとした動きで床に降ろす。
さすがに起きるだろうと思ったが、少し口をもごもごと動かしただけで、再び眠りに落ちた。こいつの神経はどうなっているのか、少しの物音でも目を覚ます繊細な俺には到底理解出来なかった。
それ以上に、この状況はどうしたらいいのか。
姿を変えた尾鰭の上に、蒼井はうつ伏せで再び眠りに落ちてしまった。
動かすに動かせず、仕方ないので尾鰭はそのままに並んで床に腰を下ろした。窓を見ると、白く曇り始めていた。そうか、人間の呼気があるからか。マッコウクジラの特性で、筋肉に酸素を溜めこんでおける自分は呼吸の回数が著しく少ない。加えて、水棲生物よろしく体温も低い。
曇りがちな窓を見ながら、どこにも行けない、仕事も出来ない、その状況にがくりと肩を落とした。
俺は、諦めてこいつの眠りに付き合うことにした。
◇
華は、奇妙な感覚を感じて目を醒ました。目だけを開けた状態で、視線だけをひやりと冷え込んだ室内に巡らせる。
――今、何時……?
視線だけで捉えた天井から見える空は真っ暗だった。ガラス張りの天井にはぱちぱちとまるで柏手のように雨音が響いていた。
「……かんちょ、」
上半身を起こしてみて、体が凍る。
自分が今、乗っているものは何だ。尾鰭だ。いや、尾鰭に姿を変えた館長のコートだ。そのコートの持ち主はどうだ。怒ってるだろう、絶対に怒ってる。地鳴りの音が聞こえる錯覚すら覚える中、華はそろりとマスクを外した状態で俯いているその顔を覗き込んだ。
「…………寝て、る?」
何ということか。まさかの展開だ。ベストオブ怖い人が女子高生の横でご丁寧に敷布団(尾鰭)まで用意して地べたに座って寝ているとは。サカマタが見たらなんと言うだろうか。
眠る館長の姿を見て華は、今は何時だろうか、と改めて思った。部屋をぐるりと見渡すが、時計らしいものは見当たらない。自分の携帯は鞄に入れたままだし、腕時計は絶対に壊す自信があるから持ったことがない。
異常に静かであることから、恐らく水族館は閉館した後なのだろう。つまり、丑三つ時を越えているということだ。
「ちょっと失礼」
華は、上半身をひねって館長のだらりと力の抜けた左腕を取り、そこに装着されたいかにも高級そうな腕時計を見る。多分、耐水耐圧耐衝撃。時刻は三時半を回ろうかとしていた。
――しまった、完全にやらかしてしまった。がっくりとうな垂れると、両手で持ち上げた左腕の時計に額が当たった。こつりと固い感触を額に感じたと同時、華の両手がその左手に握り返された。
「!?」
「やっと起きたか」
顔を上げると、つい数秒前まではだらりと垂らされていた両手が、しっかりと覚醒し重力に逆らっている。寝起きだからなのかどうなのかも判別しにくい、いつでも眠たそうな視線をこちらに向け、しかしその左手は華の両手をしっかり掴んでいた。
おお、さすがに成人男性の手はでっかい……片手で両手が掴めちゃうのか。ぼんやりと呑気なことを考えていると、一気に掴んだ両手を引っ張られ、胡坐をかいた館長の膝の上に収められた。
「わああああああああっ!?あ、あの……すみませんごめんなさいもうしません怒ってますよねすみませんすみません!」
「ああ、お前のせいでケツがいてえ。どうしてくれんだ」
「わあんすみませんすみませんごめんなさい弁償なんて出来ませんー!!」
「謝罪と賠償を要求する」
「謝罪はさっきからしてるじゃないですか!賠償なんか出来ませんー!バイト代一回も貰ったことないんです!もう帰ります!」
「馬鹿かお前、今何時だと思ってんだ。どうやって帰るつもりだ?今日はお得意の空中タクシーは使えねえだろ?」
「だって、」
いかにも『だって怒ってる』と続けたそうな言葉を、館長が遮った。
「フランス映画」
「はい?」
「いいんじゃねえの?朝、起きたら恋人が隣にいるっての」
「………………………………」
「やめろその目本気で傷つくから」
「……起こしてくれてもよかったのに」
最終バスの時間くらい知ってるじゃないですか、と視線を斜め下に逸らし唇を尖らせ、拗ねたポーズで華が言った。
「ああ、だからキスしてみたけど起きなかったな」
「な……!?」
「やっぱり映画みたいにはいかねえな、特にお前が相手じゃ」
「え、うそ!え、え!?ちょっ、ほんと!?ほんとに!?うそでしょ!?」
「嘘か本当か、お前はどっちがいいんだ?」
館長がニヤリと笑った。冷血漢のくせに意外とよく笑う。どうにも邪心が隠し切れていない笑みではあるが。そう思いながら、華は言葉を返せず顔を赤く染め俯くしかなかった。
それを見て、館長は華に気付かれない程度、小さく、しかし深く息を吸って、声を掛けた。
「蒼井」
「は、はいっ!?」
膝の上に乗ったままなので、勢いよく顔を上げれば当然互いの顔が眼前に迫る。思いの外近かった顔に、逆に視線を逸らすことも出来ずに華は固まった。緊張で強張った体に気付かない程鈍感でもない館長は、やれやれ、と声には出さず呟いてその頭頂部にぽんと掌を置いた。予想外の動作にびくりと一瞬肩が跳ねたが、すぐに力は抜け緊張もほぐしたようだった。
「時間はもうすぐ四時になる。お前に選択権をやろう。夜が明けるまではまあせいぜい一時間か一時間半てとこだ。二度寝するんならそれもいい、このまま起きてて、」
そこで一旦言葉を切った。選択肢を委ねる、と言っておきながらそれは選択ではない。もう一方の答えは無数に用意されているのだ。華は、卑怯だ、と口の中でごちた。
「か、館長は、寝なくていい、んですか?」
「マッコウクジラの睡眠時間は」
「……平均して深夜に12分程度」
「よく出来ました、だ。まあその12分ってのもあくまで調査対象の平均値で中には数時間も寝こけて船にぶつかって死ぬ間抜けもいないでもないけどな。いくら激突の心配がないからって少なくともお前みたいに十時間近くもぶっ通しで寝る必要はねえな。っておいこのやろう違うだろ」
やっぱ誤魔化せないか。華はちっ、と小さく舌打ちした。
「……もう、眠くは、ありません」
「だろうな」
「館長、は?どうしたいですか」
「お前の好きにしろよ」
「……じゃあ、話をしましょう」
「おしゃべりか。お前もそれなりに女子高生なんだな」
「いや、そうじゃなくて。いや、そうなのかな?あの、私もっと館長のこと知りたいし、私のことも知って欲しいし。無口そうに見えて意外とよくしゃべるけど、でも何て言うか……」
言って、華ははたと言葉を止めた。館長のことを知りたい、と言うのは余りにも無神経すぎただろうか。
ざっくりと知った部分しかないにしても、あまり喜んで人に話すような内容ではないように思えた。彼の話す言葉が、どうにも上っ面じみているのも仕方のない話か。それでも、せめて私にくらいはちゃんと本心で話して欲しいと、そう思うのは傲慢だろうかと。
「俺の身の上話なんか全然面白いもんじゃねえぞ」
膝の上に乗せたままの華の、腰に両手を回し背中で組みながら館長が言った。
「それより俺は、これからの話がしたい」
「これから」
華は、まるで子どものように反芻してからはっと内容に気付いた。
「これから……?」
大人の男と、それなりに大人になろうかとしている女。その、これから、とは。
「お前、さっき寝る前に言ってた話覚えてるか?」
「どどどどどどどどどれのこと、でしょうか?」
「俺と映画みたいな関係になりたいっつってたよな?俺は割と大真面目なんだがな」
「かかかかかかんちょう、こんな、あの、こんな子どもっぽくて色気のかけらもなくて毎日ケモノにまみれてるやつの、あの、どこがいいっていうか、その、こんなんでいいんですか?何年かぶりの、その、そういったお相手が」
「何年かぶりだなんて誰が言った?」
「……え、」
明らかな落胆の色を見せた華に、堪らず館長が吹き出した。
「――はっは、なんだお前その顔。そんなに残念か?」
「な、ざ、残念なんかじゃ」
「ああお前のお察しの通りだよ、呪われてからは毎日忙しくてなあ、全然そんなこと考えてる余裕もそもそも思考もねえよ。脇目も振らずに呪いばっか解いてたよ、ほら満足か?」
くっくっく、と未だ笑いを噛み殺しきれない館長を前に、しかし華は穏やかではなかった。
「……も、ばかあっ!館長のばかっ!」
その顔を見た館長が、ぎょっと目を見開いた。
「お前、何泣いてんだ」
「泣いてないっ!あなたの為になんか流すもんかもったいない!」
「蒼井」
彼が、その身の上をこうやって笑い話に出来るまで、どれだけの辛い過程があったのだろうかと、思うと涙が止まらなかった。自分が膝に乗っている相手を泣きながら罵倒するなんて、間抜け極まりない光景だろうが、そんなことには構っていられなかった。流さなくては。彼がもう流そうとしているものを自分がいつまでも澱ませておいてはいけないのだ。
「本当によく泣くな、お前は」
館長は、華の頬を伝う涙を人間に戻った唇で掬った。
「しょっぺえな」
「当たり前でしょう」
「知ってるか?人間の涙と血液の塩分濃度は海水とほぼ一緒だったそうだ。だから、生物は海から生まれた、って言われてる。でも、違うな。もし人間の帰る場所が海だったとしても俺はやっぱりこっちがいい」
言いながら、何度も華の顔に唇を落とした。
決して華の唇には落とさない。きっと、目覚めのキスだって嘘っぱちだったのだろう。
華は、館長の首に両手を回し、その頭を掻き抱いた。固そうに見えるその髪は、触れてみると思いの外に柔らかく、ああ、猫っ毛なんだ、普段重そうに見えるのは湿気のせいなのかもしれない、と思いながら、キスをした。
「――やっぱり戻んないか」
「何が」
「キスでも目覚めないような私のキスじゃあ呪いは解けないか、と」
「俺はカエルじゃねえぞ」
館長は、お前にもそういうヒロイズムがあるのか、と口に出しかけてぐっと飲み込んだ。
「もうちょっと乗ってくれると盛り上がるのに」
わざとらしく頬を膨らませて華が言った。
「盛り上がっていいのか?」
「うーん……そうですね、暗い内なら」
「じゃあもう今日は時間切れだな」
いつの間にか雨は止んでいたようで、水滴の跡を残したガラス天井から見える空は、東の方向から徐々に白み始めていた。
「これからどんどん夏に向かいますよ。どんどん夜は短くなる」
「じゃあ、夜長が恋しくなる頃までに覚悟決めとけよ」
「ぜ、……善処します」
「冗談だ。別に急いでもねえし急かすつもりもねえよ。まあ、よそに目がいく前には決めてもらえりゃ助かるけどな」
また、ぽんと頭に手を置いた。
「で?お前今日これからどうすんだ」
「あー……始バスが出たらバイト行きます」
「タクシー呼んでやろうか」
「いいですよ、頭冷やしながら帰ります」
「次はいつ来られる?」
「来週の火曜日、かな」
「火曜?」
「水曜日が開校記念日なんです。学校終わったらバイト行って、その後に来ます」
「次の日が休みの夜に来る、ってことはお前期待すんぞ」
「期待だけならお好きにどうぞ!」
ニッ、と笑って見せると、館長はもう返す言葉を持たなかった。
「あ、ほら館長!朝焼けですよー!雨上がりだとやっぱり綺麗ですね!」
華は、館長の肩越しにガラス張りになった東側の壁を指して笑った。
「あー、そうだな。まあガラス張りにしといた甲斐があったか」
「見てないじゃないですか」
「こんだけ部屋ん中が赤くなりゃ見なくても解るだろ」
「ちゃんと見て下さいよ!同じタイミングで同じものを見て、それで、一緒に綺麗だな、って、そう思いましょうよ」
「ロマンチストだな」
「こんなんでも女の子ですからね」
◇
土曜の朝のバスは普段より少し遅い。6:10分発の始バスに乗る為、蒼井は水族館を後にした。犬の散歩をする人間がちらほらと見受けられる遊歩道を、蒼井はバス通りへ向けて一人歩いて行った。ガラス張りの壁から、その後ろ姿を見送る。
遊歩道にはプラタナスをびっしりと植えてある。初夏の新緑を湛えた並木道は、昨夜の雨の名残で朝陽を反射してひどく眩しかった。
「火曜か」
俺は、デスクに開かれたまま、ひたすら青い中に幾何学的な模様が伸びたり縮んだりしている画面を映し続けているノートパソコンを見た。軽くマウスを動かすと、ぱっと画面が切り替わる。
ファイルを開き、スケジュールを確認した。平日だし、特にイベントも来客もないことを確認して、ファイルを閉じる。
先刻までそこにいた存在を思い出すと、堪らず頭を抱えてしゃがみ込んだ。くそ、冗談じゃねえぞ。
「――可愛いんだよ、くそが。かんべんしろ」
俺が人間から離れ過ぎていた所為か?人間の女ってのはあんなにやみくもに可愛いもんだったか?
すっかり陽が昇り切って明るくなった室内に、いつものマスクを探す。ソファの脇にぞんざいに転がったそれを拾い上げ、そこに丸まって眠る蒼井の姿を思い出す。あちこちにあいつの気配が残っているせいでどうにも落ち着かない。
「……簡易ベッドでも買うか」
いや、むしろ改築してベッドルームを作るか?週明けにでも業者を呼んで見積もりを出しておこう。
そんなことを考えていると、ノックの音にも気付かなかった。
「館長」
どうやら15回くらいノックを繰り返したらしいシャチが、たまらずドアを開けたようだった。
「てめえノックしやがれシャチ!」
「何度もしましたが。……館長、今日の周知事項の確認をしても?」
「ああ、始めろ」
「それと、昨日からさっき出て行くまで動物園のメスが壊した器物類の報告も併せて」
「…………高くつく女だな」
「でら同意」
まあ、改築費用に比べたら大したことはないだろう。
思いながら、今日も十時の開館時間に備え幹部共へのエコーロケーションが響いた。